スターティング ポイント 2
医務室、和泉の寝ているベッド。
間仕切りのカーテンが揺れて、入って来たのは川上先生だけだった。
「あの時は、おれどうなっちゃうんだろうって・・・不安を通り越して怖かった」
カーテン越しに聞こえてくる、兄を叱る川上先生の声。
和泉は必死で、声にならない声を心の中で叫び続けた。
自分の為に一生懸命だった兄を、受け入れられなかったのは自分の方なのだと。
店で忙しく働く兄に、学校での事を話した。
かつての父と母に話すように。
―うん、うん―と、頷く兄。
―それでね!・・・―
―うん、それで?―
和泉は懸命に兄の顔を追って話した。
だけど、顔が見えない。
―・・・・・・お客さん、来てるよ―
夜、店も閉めてやっと二人で過ごす時間。
兄は明日仕入れる花のリストを見ながら、和泉の話しに耳を傾けていた。
昼間と同じように―うん、うん―と、頷く兄。
―それでね・・・―
―うん、それで?―
―・・・・・・おれ、お風呂に入ってくる―
―ん?ああ、もうそんな時間だね。ちゃんと耳の後ろも洗うんだよ―
兄はそう言って腰を上げた。
それはお風呂に入る時に、よく母に言われた言葉だった。
和泉が振り返ってい〜っ!≠ニすると、そこには必ず母の笑顔。
・・・だが、今見えるのは兄の背中。
ぽっかり和泉の心に穴が開いた。
「だってさ、全然知らないところに置いていかれたんだぜ。本当に独りぼっちになったと思ったんだ」
―・・せんせ・ぃ・・・ぐすっ、ぐすっ・・・・・・―
極限に追いやられた和泉の心が、涙と共に溢れ出す。
それはきっと、和泉に会うことを許されなかった先生もそうだったに違いない。
そこから分かり合えるもの。
二人だけの兄弟。
父も母も、もはやいないのだ。
遺された幼い弟を守るべきは、兄の使命。
川上先生は和泉の傍に椅子を引いて座り、ゆっくり語りかけるように話した。
―和泉君は、兄さんが好きかい?―
―・・うっ・・ひっく・・・―
はいと返事をする代わりに、和泉の涙に濡れた瞼が一瞬かたく閉じられ、そして開いた。
川上先生は和泉の額に手を当て、撫でるように滑らした。
極限に追いやられた心を、温かな大きな手が引き戻す。
そっと静かに、壊れてしまわないように、安心という言葉に包んで。
―そうだよねぇ、寂しかったね。全く、困った兄さんだ。ちょっとね、自分勝手な兄さんを叱っておいたから。
大丈夫だよ、私は君の兄さんをよく知っている―
第二章 本条志信
「兄貴がこの学校選んだ理由、知ってる?」
和泉の話は、時々思いもしないところに飛ぶ。
それも決まって僕の表情が硬くなっているときに。
「え・・・?・・・勉強に適した環境だからじゃないの?」
この学校の学業優先の環境は名高く、受験生は全国にまたがっている。
もっとも、先生がそれだけを理由に選ぶとは考えにくかったけれど、涙目だったのを誤魔化したくて、つい無難に答えてしまった。
「聡は、やっぱり優等生だよな」
和泉はふうっと・・・息を抜くように柔らかに微笑んで、いつものセリフの後にその理由を教えてくれた。
「花の匂いがしたからなんだってさ」
郊外の広い敷地 周囲は樹木に覆われて
規律正しく 厳格な進学校
しかし 堅苦しいだけでなく
一歩正門に踏み入れば 溢れる花々に
溜息が漏れ 目を奪われる
匂い立つ芳香は 自然の匂いなれば
草木に帰り 空気に溶け込む
パブリックスクール 緑の芝生 温室のバラ園
パブリックスクール 多感な少年たちの学び舎
「・・・学生の本分は学業だけど、それだけが優先されるものでもないんだって、この学校で学んでいて思うよ」
先生のように、和泉のように、僕も学業だけに捉われず、広く深く人生を歩みたい。
「おれがこの学校を選んだ理由はね、ここの食堂のご飯!」
「・・・何、それ?もう、真面目に聞いているのに・・・」
きっとこの突拍子のなさが、渡瀬や三浦に否応なく先生を思い出させるのだろう。
じんわり浮かんでいた涙がすっかり引っ込んで、お陰で誤魔化す必要がなくなったのは助かったけれど。
「ホント!ホント!だってさ、兄貴全然メシ作れないんだぜ。おれその時だけは必死で勉強した!」
食事って死活問題じゃん!と、和泉は力説した。
「クスクス、きっと先生も必死だったと思うよ・・・和泉は偉いよね。一からやり直す方を選んだんだね」
「選んだっていうより、前の学校は事故以来ほとんど休んでたから行きづらくなってさ。
それに兄貴がこの学校の先生に採用されたっていうのもあったしね」
大学院まで進んでいた先生が、教員資格を持っていることは充分考えられた。
母校の教師として採用された先生は、和泉にこの学校の受験を奨めた。
―和泉!ここに入ったら、三食ちゃんとした食事が食べられるよ!―
今だからこそ冗談にも聞こえる話に、二人して笑った。
和泉はひとしきり先生の料理下手を暴露した後、
「話しが逸れちゃったな」
と、学校の医務室で兄を待つことになったところまで、話を差し戻した。
「川上先生って不思議だよな。川上先生が大丈夫って言ったら、本当に大丈夫なような気がするんだ。
その時もずっと付いていてくれて、手が・・・すごく温かかった」
そうだね、和泉。
僕も知っているよ。
川上先生の手は温かくて大きくて・・・
和泉は僕が心の中で呟いた言葉をなぞるように、川上先生について語った。
「川上先生の手は温かくて大きくて、話し方はゆっくり心地よく耳に響いて。
まるで催眠術に掛かったように、体が眠りに落ちていくんだ」
そして、翌日――
目が覚めた和泉は二階の個室に移されていた。
―気分はどう?熱は下がっているね。お腹空いただろう?薬の効いている間に、少し体を起こして食事をしなさい―
川上先生は傍の看護士に指示を与えると、和泉の頭を撫でて病室を出た。
看護士の人に背中を支えてもらいながら体を起こした和泉は、ぼんやりする頭で病室を見回した。
病室の天井や壁は柔らかなパステルブルーを基調としており、窓はリーフ柄のカーテン、テーブルには生花が飾られていた。
和泉はその生花に、昨日何も言わず帰ってしまった兄の姿が思い浮かんだ。
優しい兄なのに。
自分のことを一番に思ってくれている兄なのに。
わかっていたのに・・・忙しいことも。
それなのに、兄の背中に抱きつくことが出来なかった。
自然に首が垂れてまた涙が落ちそうになった時、横からふわぁ〜と美味しそうな匂いがした。
―ほら、ほら。お腹が空いているから、泣き虫さんになるんだよ。
どう?パンプキンスープ美味しそうでしょう。はい、スプーン―
先生と差して年齢の変わらないその看護士は、和泉担当なのか殆んど付きっ切りだった。
弟に接するように、務めて明るくフランクに接した。
それは少なからず、独りぼっちで兄を待つ和泉の寂しさを緩和する効果となった。
一日が過ぎ、二日が過ぎた。
三日目。
窓の外は抜けるような青空が広がり、遠くで学生たちの声がした。
ここは学校の医務室なのだ。
今は夏休みで帰省している生徒も多く、閑散とした校内では少人数の声は良く通る。
和泉は入学したばかりで、すぐに行けなくなってしまった中学校のことを思い出した。
窓の外は校内・・・そんなことを考えていたら、和泉担当の看護士がトランプを手にかざしながら部屋に入って来た。
―もうすぐお昼だよ。食事まで少し時間があるから、トランプでもしない?―
看護士は和泉の注意をトランプに惹きつけるように、器用な手つきでカードを繰った。
―する?・・・OK!じゃあ、何がいいかなぁ。セブンブリッジ知ってる?―
―・・・しらな・・い・・・―
まだ上手く言葉の出ない和泉だったが、看護士は普通に会話を重ねた。
―簡単!簡単!同じ柄、同じ数字を三枚ずつ集めてポイ!だ。ジョーカーは何でも使えるからね。
手札が早く無くなった方が勝ち。OK?よーし!―
スペード三枚、クイーン三枚、キング三枚!
和泉の手の中で、カードが次々に揃う。
3が三枚、1が三枚、8が二枚と・・・ジョーカー!
和泉の手の中で、カードがすり抜けていく。
笑い声さえ起きないものの、和泉に笑顔が見られるようになっていた。
―やっべぇ〜・・・あぁっ!―
反して、看護士の手の中にいつまでも残るカード。
勝負となると、カードを繰る時ほどの腕前はないようだった。
パラッ・・・
和泉の膝の上に、カードが一枚落ちた。
バラバラッ・・・
続けてカードがベッドの上に散らばった。
残り後もう少しで、勝つところだったのに。
―おっ・・おにぃ・・おにいちゃんっ・・・!―
「置いてきぼりにして、いきなり現われたらこのタイミングだよ。
バスケの時もそうだけどさ、兄貴ってタイミング悪いんだもんな」
勝負事には負けず嫌いの和泉は、いきなり現われた兄に口を尖らせて不満を洩らすところだっただろう。
・・・これが普通の時だったなら。
「でも嬉しかったんだよね」
「うん」
他に言葉はいらない。
和泉は、短く頷いた。
―和泉、ごめんね―
先生はひと言弟に謝ると、いつもの優しい兄の顔で歩み寄った。
―熱は?―
これもまたいきなり、和泉の額や頬にベタベタと手を押し付けた。
兄の手の温もり。
過ぎてみればたった三日間のことなのに、和泉には酷く懐かしく思えた。
じっと兄の顔を見つめる和泉に、
―もう熱も下がったんだね。顔色も良いし・・・安心したよ―
先生は再度和泉の頬を両手で挟みながら、そう言って微笑んだ。
病室には和泉と先生の二人。
いつの間にか、看護士の人は部屋からいなくなっていた。
―・・・トランプしていたのかい?面白そうだね。和泉のしていたのは何?それしよう―
ベッドに散らばるトランプを拾い集めて、早速繰り始めた。
―セブッ・・セブンブリッジ!―
和泉の大きな声が、病室に響いた。
―セブンブリッジ?知らないなぁ・・・和泉、教えて―
―えっとね・・・同じのばっかり集めて・・・―
―同じのって、何が同じなの?―
―えと!同じ・・柄と!同じ数字のを、三枚集める!―
―あー、なるほどね。それから?―
―それから、ジョーカーは何でも使えて・・・集まったらポイ!して、カードが早く無くなった方が勝ち!―
それまで上手く言葉が出なかったのが嘘のように、和泉はしゃべり始めた。
先生は和泉の説明に、うん、うん、と頷いた。
一度も顔を、逸らすことなく。
―クイーンと・・・クイーン!よぉし、ポイッ!と。はい、じゃ、次、和泉―
いちいち声を張り上げて楽しそうな先生に比べて、和泉は無言でカードを引く。
―楽しそうですね。廊下まで声が聞こえていましたが・・・ひょっとして和泉君!?
すっげ、言葉が出るようになったんだ!―
ある程度の事情は把握しているのだろう、先生に配慮して席を外していた看護士が、昼食時間のため配膳ワゴンを押しながら戻って来た。
病室の時計は正午を指していた。
―おれ、ご飯食べる―
和泉は手持ちのカードをバサリと捨てて、テーブルに移動した。
回復に応じて、食事もベッドからテーブルへと移行しているようだった。
―ん・・・?途中なんだろ?せっかくお兄さんと楽しんでいるんだから、食事時間は少しくらい遅れてもいいんだよ―
―・・・面白くないもん―
―へっ?―
―おれ、セブンブリッジがいい。ババ抜きなんて、簡単過ぎて面白くない―
・・・はしゃいでいたのは先生だけのようだった。
ババ抜きも面白いのに・・・先生は首を捻り捻りトランプを片付けると、気遣って席を外してくれた看護士に礼を言いつつ和泉と同じテーブルに座った。
―先ほどは挨拶もなく、すみませんでした。和泉がお世話になっています。僕は、トランプはあまり知らなくて・・・。
そのセブン何とかも、和泉に説明を聞いたら難しそうだったのでババ抜きに・・・―
―あははっ、難しくないですよ!和泉君もセブンブリッジは初心者ですよ。
僕はもうちょっとで、和泉君にボロ負けするところでした。助かりました―
看護士は先生の挨拶に爽やかに応じると、二人分の昼食を並べた。
―・・・あの?―
―お気兼ねなく、川上先生から言われていますので。
和泉君の兄さんが来たら、一緒に食事するように勧めてくれってね―
先生の戸惑いは、見越していたようだった。
―・・・そうですか―
―ちょうど良い時間に来て下さいました。・・・あ!一緒に食事をするのは和泉君のためではなく、
あなたのためですよ、お兄さん―
看護士は危うく忘れるところだったと、川上先生の伝言をそのまま伝えた。
―コンビニや店屋物ばかり、一人なら尚更だね。どうせ碌な食事しか、していないだろうからね―
―まいったな・・・―
先生は苦笑いの表情で、小さくため息を洩らした。
―川上先生は食事には厳しいですからね。和泉君との対話の中でも、食事のことは何度も確認されていましたよ。
和泉君も言葉が出辛かったのに、よく頑張って答えていたね―
―うん!おれね、隣の果物屋のおばちゃんがご飯作ってくれることも、ちゃんと川上先生に言っておいたよ!―
ふわりと和泉の頭を包み込むように手が伸びて、ぐいっと肩口に抱き寄せられた。
へへっ、照れた笑顔を見せた和泉に、先生も笑顔を返した。
―美味しそうだね、和泉!さあ、食べよう!それじゃ遠慮なく、いただきます!―
―・・・和泉君、あれだけ言葉が出なかったのに、嘘みたいにしゃべれるようになって。
やっぱりお兄さんだなぁ・・・。川上先生は、悔しいだろうなぁ―
看護士の感嘆混じりの独り言は、残念ながら先生の耳へは届かなかった。
「それからは毎日、おれが退院するまで来てくれて・・・けど、必ずメシは食って帰ってたよな。
ひょっとして、メシが目的だったのかな!?」
冗談なのか本気なのか、和泉は今さらながらに首を傾げた。
「そんなわけないじゃない」
医務室の食事が美味しいのは知っているけれど、さすがに否定の言葉しか思い浮かばない。
「兄貴なら、わかんないぜ。まっ、どっちでもいいけどさ」
ああ、そうだった・・・問題はそんなところにはないのだ。
どちらであったとしても、和泉の記憶に残るのは、病室で兄と一緒に食べた食事の美味しさのみ。
「結局、一週間の入院だったんだけど、何だかずいぶん変わった気がした。
川上先生の話し聞いていると気が楽になって・・・ちゃんと兄貴の顔が見えるようになったんだ」
「変わったのは、和泉だけじゃないと思うよ」
「そりゃあ・・・ね。兄貴も川上先生に叱られたり、おれが入院している間にいろいろあったりしたみたいだし・・・」
和泉は少し考える素振りを見せたかと思うと、
「その時の兄貴のことについては、おれが高等部に上がる時に川上先生が話して聞かせてくれたんだ。
身も心も健康になって、ちゃんと兄さんを理解出来るようになったねって」
そう言って、ニカッと白い歯を見せて笑った。
和泉の笑い方から察するに、先生にとっては余計な話だったのだろう。
夜陰の門をくぐるように遡っていった先生と和泉、二人の時もやがて現在に近づきつつあった。
第三章 本条先生
「おれが置いてきぼりにされたって不安に思ってた時、川上先生が言ってくれたんだ」
―兄さんは、いま君のことをずっと思っているんだよ。大切な弟に、兄として何が足りなかったのか。
まあ二、三日は必要かな。そのくらいはしっかり反省してもらわないとね―
「だから心配しなくていい、必ず迎えに来るって」
そして和泉は、後々川上先生が教えてくれたことも話の中に織り交ぜながら、その時の先生の様子について語り始めた。
先生は和泉を川上先生に預けて、一旦家に戻った。
正確には、預けるというよりも引き離されてしまったのだが、
―言っただろう、君は和泉君の傍にいなくていい。いたら迷惑だ―
川上先生の言葉の前に、反論も後を追うことさえ出来なかった。
置いてきぼりにされたのは、本当は先生の方だったのだ。
家に着いた時は、すでに夜中だった。
部屋には上がらず、店の方へ向かった。
シャッターを閉めただけでほうりっ放しで出て行ったので、片付けと明日の準備のために。
だが・・・一時間が経ち二時間が経っても、先生は花の仕分け台のテーブルに座ったままだった。
動けなかったのだ。
初めて、目の前の鮮やかな色彩を放つ花々が色褪せて見えた。
弟の姿が見えなくなって、気が付いた。
眼は映っているだけ、見えるのは心なのだと。
―それでね・・・―
それでね・・・そこから先、和泉は何を言っていたのか思い出せなかった。
川上先生に和泉の好きなものを聞かれて、
―・・・和泉は・・・和泉の好きなものは・・・・・・―
―本条君、答えなくていい。そんなことは問題外のことだよ。そこから始まるようじゃ、話にもならない。
弟の為とは、よく言えたものだ―
問題外と言われたことすらも、すぐには思い浮かばなかった。
優しい兄ではあったが、弟と真正面から向き合うことがあまりなかった。
そんな兄を、母は危惧していたのだろうか。
家に帰って来ると、決まって母は言った。
―お兄ちゃん、和泉と遊んでやってね。和泉の話を、聞いてやってね―
結局、片付けも明日の準備もすることなく部屋に戻った先生は、両親の位牌の前に正座した。
暫くじっと目を瞑っていると、いつかの父との会話が思い出された。
―誰かのために、考える人生であって欲しい―
―・・・誰かって、誰?―
―お前を必要とする人だよ―
やがてゆっくり瞼を開けると、静かに呟いた。
―父さん。僕を必要とする誰かは、一番身近にいました。花が色褪せて見えました。
弟を泣かせてしまうような僕には、まだ早いようです・・・店は閉めます―
それから三日後、先生は和泉を迎えに行った。
―おっ・・おにぃ・・おにいちゃんっ・・・!―
―和泉、ごめんね―
紛れもない、それが原点。
NEXT